Keijiweb ver 6.24 - 生きる意味と死の意味と宗教観と死生観

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■ 生きる意味と死の意味と宗教観と死生観 2013年01月16日
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つい先日母が亡くなりまして

先日、2013年1月14日に母が亡くなりました。まだ65にもなっていないのに。3年前に胃癌が判明しました。スキルス胃がんで胃全体がビッシリとがん細胞に侵され、胃の外側にもがん細胞が現れていました。

胃は全摘出、その後も抗癌剤治療を続けていましたが全身と腹腔内に転移した癌細胞には勝てず、最期の1ヶ月は食事も出来なくなり、ベッドの上でやせ細っていくのを見続けました。最期に食べたのはガリガリ君のソーダ味。2日連続で1本ずつを食べ、しみじみと「美味しかった」と聞き取りにくい声で言い、次の日の夜中に亡くなりました。なんとか看取ることが出来ました。父は4年前に亡くなりました。干物と塩辛作りに関しては天才だったと思いますが経営者としては最低でした。

僕は21歳から26歳くらいまで、毎日死と隣り合わせの生活を送っていました。そして今36歳。15年以上「死ぬとはなにか?生きるとはなにか?」について考え続けました。

その結果、今のところ考えている宗教観や死生観をここに書き散らかしたいと思います。

注意事項

これからの文章は宗教や命、死について触れるため人によっては不快感を持つかもしれません。読んでいて不快感を感じたらそっと閉じるボタンを押してください。僕は、宗教を精神的な拠り所にはしていませんが、宗教芸術や文化としての宗教は好きです。仏像は格好いいしキリスト教の宗教画も美しい。イスラム教のモスクも素敵だと思います。

世界には本当に様々な宗教がありますが、それらを信仰する人を否定するつもりはありませんし、信仰なんてやめなさいなんて事を言う気もありません。そんなのおこがましいし大きなお世話です。僕は合理的に考えて、今の僕に必要なのはなんだろう?という事を考えてこの文章を書きます。だから、以前僕が言っていたことや、10年後の僕が考えている事と違う可能性もあります。

色々配慮はして書きましたが、時間的な余裕が無いので配慮しきれてないかも知れません。この点はご容赦いただくしかありません。2013年1月16日の14時に、母の葬儀を行うために外房線の下り電車の中で考えた事を書きます。


人は死んだらどこに行くのか?

僕は人が死んだら天国に行くとか極楽に行くとか地獄に行くとか輪廻転生するとか、そういう宗教観を全く信じていません。

人の思考はどこで生まれるのか?脳です。今時子供でも知っています。脳が弱るとボケます。記憶があやふやになり論理的思考が出来なくなります。酩酊した時や寝起きにぼーっとする。麻酔をかければ簡単に眠る。それは脳が正常に回っていないからです。

では、その脳が機能を停止したらどうなるのか?魂がスーッと体を抜けだして急に思考がハッキリして天国なりなんなり、死者の世界に行くのか?え?意識を生み出していた脳が止まったのに?電源を切ったパソコンが内部で計算を続けていたらオカルトでしょう?

僕にとって死とは「無」です。死んだらそこで思考は停止、意味を消失します。それが「死」です。これがもっともシンプルな回答でしょう。オッカムの剃刀です。

「死=無」です。


なぜ天国、極楽、地獄が必要なのか?

簡単にいえば極楽は人心の救済のため、地獄は治安維持と宗教経営のためでしょう。

死んだあと天国に行けると思えば死の恐怖がやわらぎます。現代の文明社会は人類史を見ても珍しいくらいに平和です。各地で紛争は起きていますが、明日日本で10万人単位の殺人は起きないでしょう。かなり平和な状態と言えます。

でもたった70年前には世界規模で殺し合いをしていましたし、戦国時代はカジュアルに人が人が殺されていたと聞きます。そんな社会で死に怯えずに生きる、これはなかなか大変です。だから死への恐怖を抑える装置が必要でした。それが極楽仮説です。宗教は死後の救済を約束します。これは仏教もキリスト教も同じ。人はエジプト文明の時代から、きっとおそらくそのずっと前から、そして今も死がたまらなく怖いのです。だから宗教が約束する天国や極楽が必要でした。

ところが21世紀の現代、死への恐怖や生きていく上で心を救済するシステムは宗教以外にもたくさんあります。精神科、娯楽、哲学、学問などなど。現代において宗教だけが特別視されなければならない理由はありません。

じゃあ地獄は?「こういう事をした人間は死後に地獄で苦しむことになる」という作り話を信じさせることで「悪事を働かせない」ためにあるのが「地獄という脅し」です。じゃあ悪事とはなにか?キリスト教徒は誰も殺さないのか?イスラム教は?あれ、仏教発祥の地のインドは女性の人権が軽視されまくって酷いことになっています。

悪事とは、単に「その宗教にとって都合がわるいこと」に過ぎません。道徳教育的な要素も多分にありますが、じゃあ神の意志に殉じて異教徒を殺した人間は地獄に行くのか?もし行くとしたら、そんな神の意志に従う人がいるのでしょうか。悪事や正義の定義なんてあやふやで、宗教の都合でいくらでも変わります。そのルールを決めたのはだれか?神様?いえいえ、普通に考えて人間でしょう。宗教を作ったのは人間です。神様でも鯨でも宇宙人でもない。

お寺(誕生寺で買いました)で売っている仏教教育用に漫画に「地獄と極楽」というのがあります。ある死者がウッカリ地獄送りになり、様々な、悪事を働いた人が酷い目に遭わせられる様子を見るという内容です。所々に先祖供養の大切さが描かれています。

「お前の子孫がお布施をしたからお前は救ってやろう」と地獄の鬼が言って「苦しんでた人が極楽に送られる」なんていう、"あからさまなシーン"があります。まさに地獄の沙汰も金次第ってことですが、本当に人を救済するために宗教があるのなら、お布施の有無にかかわらずみんな極楽に送ってやればいいでしょう?(※)

お布施を払って供養すれば地獄で苦しんでいる祖先が救われる、これをみんなが信じて得をするのは誰か?はい、わかりますよね。お寺です。極楽は人心の安定と救済のためにあります。地獄は治安維持と宗教経営のためにあります。僕はそう考えています。

※…後で調べたら、浄土真宗の教えだと阿弥陀如来の本願力により全ての人間は極楽浄土に行くという設定だそうです。念仏を唱えるのは報恩なので唱えても唱えなくてもいい。凡夫が「ありがとう」と言うかどうかは関係無いって事みたいです。


誰が為に葬儀する?

「死=無」で「極楽も地獄もない」というのが僕の考えです。ですから、死者のために葬儀をするという考えは全くピンときません。もし僕が死んだら葬儀も読経も必要なく、単に火葬して海や山に撒いてくれればいいし、もっと言うなら、法律が許さないでしょうけど鳥葬や水葬だって構いません。死んだ後のことなんてどうでもよろしい。

じゃあ葬儀は誰のためにやるのか?それは生きている人たちのためです。読経のリズム、煩雑な手続き、葬儀の準備などなど忙殺されているうちにあれよあれよと進んでいき、いつの間にか死を受け入れて悲しみも癒えていく。その為にあるのが葬儀です。

ですから、「もし遺族が納得できるのなら」葬儀の形式なんてどうでもいいのです。だから、母の葬儀は通夜も告別式もありませんし葬儀場も借りません。葬儀屋が提示するプランは丸無視。最低限必要なお棺、骨壷、搬送費、霊柩車で約16万円となりました。イオンの葬儀は火葬式だと20万円ですが、僕達の場合は遺影も無しなので更に安くなっています。

なにもかも省いて故人が可哀想?花が無いと可哀想?お供えに団子が必要?ははは、そんなもんでなにが変わるのか。通夜?告別式?それをやって僕の悲しみが変わるのか。遺影を作ってもらうのに5万円?へ?そんなの自分で作れますけど。っていうか、僕に作らせてください。

写真の背景を切り抜いて、母のお気に入りの場所の写真を入れさせてください。それが僕の気持ちなのです。花や団子なんてどうでもいい、僕が心を込めたいのは遺影で、それは僕が作りたいんです。だから僕は母の遺影を自分で作りました。パソコン内で写真を探してPhotoshopで加工して2Lサイズ(※)でプリントして100円ショップの写真立てに入れました。掛かったお金は190円。僕の気持ちはプライスレス。葬儀社にお金を払うのが気持ちなのか?いえ、故人を想って心と手間を尽くすのが大事です。

僕は、母の死に対して最も深い悲しみを抱えている僕と兄の為に、僕達二人が納得する為に葬儀をするのです。母のためではない。自分たちのため。だから、僕等が必要ないと思えば「普通は必要」なんて言われても関係ありません。ケチりすぎなんて言われても、自分でできることは自分たちでやります。それが僕たちの母への気持ちなのです。

母方の祖母の教えは「お金を使う前に頭と手を動かせ」でした。祖母はもう15年以上前に亡くなりましたが、僕はその教えを守っています。母方の祖母は、亡くなる直前まで働いて収入を得て一人暮らしをしていました。非常に素晴らしい人でした。母も亡くなる2ヶ月前まで仕事をしていました。僕もそうしたいと思っています。

※2Lは遺影としては小さいのですが、同じ物を2個作ってありまして、火葬のあとに僕と兄で持ち帰ることにしています。東京の狭い家に置いておくには2L程度がちょうどいいので意図的に小さく作りました。もしA4くらいで作っても、家にある額縁を流用したりすれば数百円で作れますけど。


お布施の相場

僧侶を呼んでお経を上げてもらう、実は僕達はそこにも価値を見出していません。が、それでもお寺に納骨する以上は仕方ないのでお布施を払って来てもらいます。その相場はいくらか?聞いても教えてくれない僧侶もいますが、僕等は一応教えてもらいました。法名(実家の宗派では戒名ではなく法名と呼ぶ)に「院」が入る場合は50万円。そうでない場合は30万円だそうです。

でも、上にも書いたようにかなりの儀式を省いたので、実際に払うお布施はそれを加味したものになっています。30万円という相場なんかに縛られず、自由に気持ちで決めたらいいのだと思います。それこそ10万円でも5万円でもいいんじゃないでしょうか。だって「お気持ち」でしょう?それで怒っちゃうようなお寺とは縁を切っちゃってもいいんじゃないかと僕たちは思っています。

高い仏具を揃えたり上納金があったりしそうなのでお寺も大変だとは思いますが、僕等も大変なので大変なのはみんな一緒、お金はたくさん持っている人たちからもらってくださいってと思うことにしました。


宗教施設が豪華である必然

お寺はきっと運営にお金がかかります。本堂の外側や内側にきらびやかな仏具を揃えて維持するのは大変なお金が必要でしょう。じゃあ、なんでそうやってきらびやかにしておく必要があるのか?それは「権威」のためです。教会にしろお寺にしろ、その「教え」を信じさせるには権威が必要です。ホームレスの格好をした人とローマ教皇が同じ事を言って、人はどちらの言葉をありがたがるでしょう?大体ローマ教皇の言葉をありがたいと思うでしょう。それは絶対的な権威があるからです。

その権威を裏付けるのが光り輝く仏具や仏像、見事な宗教画です。「箔」ですな。それらの維持にお金がかかるわけです。権威は値が張ります。ところが、僕は宗教を心の拠り所にしていません。雄大な雪山を間近に見て、山の神様を感じることはあってもお寺の仏具を見て神性を感じることはないという感性なのです。美術品としての美しさは感じますが神性とは違います。

なので、僕にとってそういった権威は無意味で、鑑賞するのに500円くらいは払ってもいいのですが、何十万円も払う気にはとてもならない。だったら美術館でも行きますよ、と思うのです。

権威を維持するためにお金が必要なのはお寺の都合です。僕には関係ない。必要ならそれなりの努力をして稼ぐべきです。単なる相場や慣習に縛られる必要はありません。


土着の宗教となにが違うのか

長々書いてますが、この内容を到底受け入れられない人は結構多いんじゃないかと思っています。長い期間宗教を心の拠り所にしている人や、神の存在を信じている人、宗教関係者、熱心な信者は僕を異端者と思うかもしれません。だからそういう人は閉じるボタンを(ry。

ではここで「未開の地で豚の首を切り落とす宗教儀式をしている人たち」を見てどう思うか想像してみてください。彼らにとってはそれは神聖な儀式でとても大事なことなのです。それをしないと村全体が疫病で死に絶えると信じているのかもしれない。

病気になるのは医学的な原因があって、細菌やウイルス、細胞の変異だったりします。でもその理屈を知らない人は豚の首を切り落として神に捧げれば助かると信じてしまう。野蛮だと思いますか?意味が無い、馬鹿らしいと思います?彼らは大まじめに真剣に豚の首を切り落としているのに?

宗教観の違いってそういうものです。僕から見ると、全ての宗教は合理性を欠いています。でも、宗教とはそういうものだからそれでいいのです。だって、人間って最適化されきってないでしょう。不完全な人間が生み出した宗教なんだから不合理を含んでいて当たり前、それを受け入れるかどうかは信仰の問題でしかない。

そして、僕はそれを否定も肯定もしません。僕は信仰しませんけど。


お墓と仏壇にはなにがいるのか?

ここまで読んだら僕の宗教観とか死生観が大体わかっていただけたと思いますが、僕はお墓にも仏壇にも価値を見出していません。まず遺骨。人間の体を構成する物質は数年で全部入れ替わります。という事は、死んだ瞬間に体を構成していた物質は「たまたま」死んだ瞬間そこにあっただけで、霊的な意味は無いと考えています。だから僕の遺骨なんてのは、迷惑でなければ海や山に撒いて欲しいと思います。

じゃあ仏壇はどうか。仏壇に置かれている位牌なんてのは、3000円程度の板切れに僧侶が法名という訳のわからない名前を書いたものです。それにどういう価値があるのか。僕の母の名前は「松本章子」です。死んだからといって釈なんとかなんて名前にはなりません。位牌は葬式仏教のルールとして存在するだけで、言ってみればお寺の都合です。

そもそも位牌なんてものは本来の仏教には存在しません。せいぜい江戸時代に一般化した、仏教の長い歴史からすると歴史の浅いルールでしかありませんし、宗派によっては位牌なんて用いない場合もあります。

全ては単なるルールです。僕はそこに価値を見出さない人間なのです(が、墓に納骨する以上は従わなければならないルールだとも思っているので従いました)。

墓や仏壇は、僕にとっては無価値です。だから父が亡くなってから仏壇にも墓にも、一度も手を合わせていません。でも、父のことはよく思い出しています。ああ、また彼の作った干物を食べたいなと思い出します。


なぜ祖先が子孫を祟ると思うのか?

よく、先祖を大事にしないとよくない事が起こるという人がいます。ありていに言えば「罰が当たる」と。じゃあ、こう考えてみましょう。「自分の子孫が自分の墓や仏壇をないがしろにしたからといって罰を与えたりするだろうか?」。僕ならなにもしません。単に見てます。だって、自分の子孫が生きてるだけで嬉しいことでしょう?なんで子孫を不幸にしたいなんて思うんだろう。

じゃあ、なんでそういう観念があるのかといえば、墓や仏壇を忘れられちゃうとお寺が困るからです。毎年檀家からお布施を貰わないと困ってしまいます。だから先祖を大事にしろ、墓を綺麗にしろ、仏壇には仏様がいる、と思わせたいのです。

先祖を大事に思うのは正しいことだと思います。僕がここに生きているのは連綿と続く先祖たちが生き抜き、子をなしてきたからです。その点には感謝をしています。最期に母には泣きながらですが「産んでくれてありがとう」と伝えました。だけど、それと仏壇や墓は無関係です。だから僕はそれらを大事にする気にはならないのです。

墓や仏壇を大事しなかった程度で先祖は子孫を祟りません。僕はそう考えています。たったそれくらいの事で先祖が怒って祟りを起こすと思うだなんて先祖を信じていない証拠です。僕は僕の先祖がそんな事をするとは思いません。

(そもそも、死=無ですから、先祖の意識は無に帰したというのが僕の立場ですし)


死んだ人が本当に死ぬのはいつなのか?

肉体が活動を維持できなくなり、心臓が止まって脳が意味を消失するのが個人の死です。では、その人の存在はそれで終わりなのか?いえ、その人のことを誰かが覚えていたらまだ存在は消えないと思っています。

墓や法事、仏壇の存在意義はそこにあり、故人の事を忘れないための装置が墓です。じゃあ逆に言えば、故人の事を思い出せばそれが供養になりますし、故人を思い出せる写真なり形見があれば墓なんていりません。

故人を偲ぶ人が勝手に集まってその人の話をする、それが心のこもった供養です。そこになぜお経や墓が必要なのか。墓や法事は本質ではありません。生きている人間の、供養したいという気持ちが大事なのです。

形式や常識にこだわっても心なんてこもらないと思ってます。仏教の葬儀をキリスト教徒の立場で見ていると考えてみましょう。もうね、コントですよコント。意味不明で「ナニシテルンデスーカ?」ってレベルです。そして逆もしかり。形式や常識ってそういうものです。世界的にも日本の葬儀費用は高すぎると言われています(例:葬儀費用の平均は日本:231万円、韓国:37万円、イギリス:12万円、アメリカ:44万円)。

僕は父や母のことを事あるごとに思い出すでしょう。彼らの記憶は僕の中に残り、遺伝子の中にも彼らは生きています。彼らのことを思い出す人が全ていなくなった時、誰も思い出さず記憶も記録も全て消えた時が本当の死です。

この文章は、彼らの消失を先延ばしにするため、僕の中で生き続けてもらうためにも書いています。


結局楽だからでしょ?

さて、色々書いて来ましたが、こんな面倒くさいことを考えたり、遺影を作ったりアレはいらない、コレはいらないと葬儀社に主張し、親戚縁者の口出しにもめげずに自分たちが納得出来る葬儀をするのは骨が折れます。自分で考えて行動するのは大変なのです。

だから多くの人は周りの空気に流されて葬儀を行い、請求書を見て青くなる。でもさ、そんななにも考えないでやった葬儀が本当の供養なのか。心を尽くしたと言えるのか。僕は、面倒くさくても全ての事柄について真剣に考える方が正しいと思います。

なんとなく空気に従い、波風立たないように振舞うなんて僕には出来ません。納得いかない事はやりません。


まとめ

僕は思考停止した人間が苦手です。常識や慣習にとらわれ、物事の本質はなにかと考えることもなく漫然と生きている人が苦手です。僕だって完璧な人間ではありませんし、常に物事を考え続けているわけじゃない。でも、出来るだけ「それはどういう意味があるのか?」と考えることにしています。でないと、津波で流された300年後にまた流されるなんて事になります。

物事の意味や本質に考えを巡らせる。金を使う前に頭と手を使う。亡くなった人を想い、人類全体の価値向上に貢献する。そうやって、先祖が頑張って生きていた意味を最大化する。それが僕達、現在生きている人間の役割だと思っています。

明日、母の遺体を火葬します。


追伸

僕の考えが絶対に正しいとは思っていません。単に僕の考えを書き連ねただけです。生きる意味や死の意味を考えるキッカケになれば幸いです。読んで不愉快になった方はすみません。インターネットは読まない自由がありますので、読んじゃった以上は自己責任。心に中に仕舞っておいてください。感想メールとか要りませんので。


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